黒沢 忠三郎 (くろさわ ちゅうさぶろう)

天保元年(1830)~万延元年(1860)7月11日/病死/31歳/水戸藩士(大番組)

 名は勝算。父は黒沢林蔵勝正(大関増長三男)、母は父の義兄黒沢勝強の娘。桜田事件の大関和七郎は実弟、廣岡子之次郎は甥。
幼いころから体格が良かったので、剣道場に通わせたところ上達目覚ましく、さらに槍術、馬術、水泳などを習った。学問にも励み、藤田東湖、戸田忠敞の教えを受けたこともある。
嘉永6年(1853)6月、25歳で江戸藩邸を護るための御床机廻を命じられ出在する。翌安政元年(1854)正月、ペリーが再び来航すると、江戸藩邸警護を命じられ上府、日米和親条約の締結される4月まで滞在した。安政2年2月、家督を継ぎ百石、小晋請組となる。同6月馬廻組、同5年正月、大番組士となる。
「戊午の密勅」降下の時はその全国回達を主張し、「安政の大獄」が始まると、大老井伊直弼を除き幕政を正さんとする計画に参加していった。小金や長岡の屯集にも参加し、謹慎処分を受けた。
安政7年(1860)1月には弟大関、甥廣岡とともに水戸を脱して江戸へ上り、薩摩藩士の有村兄弟や田中直之進らと打ち合わせをした。
襲撃の際、原作ではその長身を買われ、襲撃合図の短銃を撃つ役目を与えられている。(発砲者に関しては諸説あり。)左翼(お濠側)黒沢隊の隊長として激闘、肩と耳、脇の下を負傷するが現場を脱し脇坂家(龍野藩)へ佐野、蓮田、斎藤とともに自訴した。同日暮れ方、一同は細川家(熊本藩)へ預け替えられ、幕府の取調べを受け
る。重傷であったが、手当てにより命は取り留めた。その後、弟大関とともに前田家(富山藩)へまた預け替えられ、事変以後、はじめて兄弟二人で過ごす機会がもてた。だが、彼一人は4月21日に九鬼家(三田藩)へ移され、7月12日、九鬼家で病死する。忠三郎の大刀は刃こぼれがはなはだしく鋸のようで、奮戦のあとを示していたとのことである。
贈正五位。


【参考文献】
桜田門外ノ変、維新前史桜田義挙録、桜田烈士銘々伝、桜田烈士伝、水戸市史 中巻(四)、歴史読本1993年5月号



※この画像は、国立国会図書館の許諾を得て、同館ウェブサイトより転載しています。


【墓所】
水戸市松本町 常磐共有墓地



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