平成21年11月8日(日)、水戸生涯学習センター131講座室において、平成21年度歴史講座第1回「『桜田門外ノ変』と水戸藩の領民」を開催しました。
講師は、野上平先生です。
『桜田門外ノ変』は、果たして武士たちだけで行えたのか?
野上先生は「農村史」が専門なので、その視点から水戸藩の領民がどのように事変に関わったかをお話しいただきました。
『桜田門外ノ変』を話すに際し、どうしても考えなくてはいけないのが斉昭公です。
斉昭公の天保の改革…学者間では「後期水戸学」と呼ばれる理念をもとに政治改革を行いました。
今でいえば、霞が関や永田町でやらなかった改革を、水戸で先行して行ったのです。
神儒一致…日本古来の神様と儒教を一緒にした学問。それは仏教を排除しましたが、のちの吉田松陰や日本のリーダーに影響を与えました。
それから、尊王攘夷論が起こってきます。
斉昭公は地方に「郷校」を作ります。領民たちがそこで学んだことにより、多くの人にも政治意識が高まることになりました。
郷校が極めて大きな影響を与えているといえます。
『桜田門外ノ変』というと、誰が中心なのか…
いよいよ決起をするときに、江戸に行ったのが、金子孫二郎。
襲撃が成功して、薩摩と連携して挙兵しようと大坂に行ったのが、高橋多一郎。
水戸を取り仕切るのが、野村彜之介。
金子、高橋、野村らは郡奉行…地方役所の長たちでした。
野口村(現常陸大宮市)の時雍館(のちの野口郷校)に注目していきます。
講師として成沢村(現水戸市)の加倉井砂山がいて、その門人に神官である鯉淵要人、斎藤監物らがいました。神官は地域の学識者でもあり、多くの領民たちが彼らの影響を受けたと考えられます。
時雍館は天保期に計画されましたが、斉昭公が処分されたので開校が嘉永3年になってしまいました。歴史館にある資料には、天保14年に廃寺の跡に医学館を建てるため戸田忠敞、藤田東湖、大場弥衛門の文官3役と西郡奉行・金子孫二郎らが関沢家に調査のために訪れた、という記録があります。関沢家は紙問屋としてそうとうの豪商であったそうです。当時、藩としてかなり力を入れていたことがわかる史料だと言えます。
時雍館で加倉井砂山に学んだ人の中に、安藤幾平、田尻新介、平沢貢、大貫慎介、小室藤左衛門らがいます。安藤、田尻は、金子孫二郎が事変直前に水戸街道を通らず遠回りで江戸に上る際、匿いました。平沢は、斉昭公の改革で金銭的な援助をしていました。大貫の弟・多介は、高橋多一郎とともに大坂へ赴き境で捕らわれました。小室は、桜田烈士・杉山弥一郎と昵懇の仲で、仮説ですが事変の資金提供者の一人ではないかと考えています。
やがて「戊午の密勅」から「安政の大獄」へ。
高橋多一郎、金子孫二郎らは諸藩と連携すべく、同志を他藩へ遊説に向かわせます。
その中に、農民が同行しました。住谷寅之介、大胡聿蔵の組には吉田健蔵(町屋)や根本正之介(山方)。根本が遺した日記を、現在活字にする活動が行われています。
関鉄之介、矢野長九郎の組には、大和田作兵衛(玉造)です。
しかしその結果、他藩はあまりいい感じではなかった…世の中の情勢が変わってきたということです。
関鉄之介と後藤哲之介の関係について。水府村史などを参考にお話しします。
後藤哲之介…父・権五郎は益習館(太田・郷校)世話役をし、斉昭公の甲辰の難にあたっては雪冤運動に励み、処分されました。哲太郎は父を継ぎ、庄屋などを務めました。斉昭公が再び謹慎を命ぜられた時には、同士の間を奔走しました。金子、高橋、大胡ら多くの志士と交際していましたが、特に関鉄之介と親交があったようです。
関は山横目を努めていた後藤哲之介に、付近の豪民から御用金と称して募金にあたらせ、それを江戸に届けさせ、まもなく『桜田門外ノ変』が発生した、と言われています。
後藤がなぜ金を集めているのか、民は怪しんでいたようだったが、後藤は事変のための資金集めとは言えなかったということです。
事変後、後藤は関とともに再起を期して越後へ行き、そこで同志・広木松之介と会う。後藤が広木を越前へ逃している間に関は捕らわれていて、越後に戻ると後藤は広木と間違えられて捕縛されました。後藤哲之介は「広木松之介」として絶食し獄死します。
事変や逃走の募金は、たくさんの方々の募金や豪農(商)の寄付のよったと考えられるのです。
『桜田門外ノ変』の後、起こった東禅寺事件、坂下門外の変では、農民、商人、修験者、医者なども参加するようになりました。
『桜田門外ノ変』は襲撃に参加した志士たちだけで起こした事件ではなく、歴史の表舞台にはあまり出てこない多くの人々の力があったことがよくわかるお話でした。