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時あたかもペリーの黒船が来航し、対外政策に先見の明ある斉昭の存在を、幕閣も無視できなくなった。だが、幕政参与となった斉昭は、欧米列強との一戦も辞さない覚悟で外交交渉にあたるべきと硬論を吐き、彦根藩主井伊直弼ら譜代大名との間に対立が強まった。
こののち、斉昭と東湖は、水戸藩の政治改革に着手し、兵器の製造、軍事軍制の改革強化を図った。この時期、東湖は、西郷隆盛、橋本左内、吉田松陰ら各藩の志士と深く交わっている。水戸学を元にした東湖ならではの尊王攘夷論は、志士たちに大きな影響を与えた。だが安政二年(1855)、江戸を襲った大地震によって東湖は圧死した……。
安政四年(1857)秋、米国総領事ハリスは幕閣に修好通商条約の締結を迫った。これ以上の弱腰は欧米列強につけいられるだけとみた斉昭は、ハリスの提案を断固拒絶せよと建言した。だが、幕閣は斉昭の意見を容れようとはしない。斉昭も渋々条約締結に同意しかけたが、このとき京都朝廷が条約案への勅許を拒絶、政局は一挙に流動化した。
この頃の幕府には、もうひとつの懸案があった。病弱な将軍家定の継嗣問題である。血統からいえば紀州藩主徳川慶福が最有力であったが、国家危難の切所にあって年長かつ英明な一橋慶喜を将軍継嗣に望む声が有志大名の間に多く、彼らは一橋派と呼ばれた。慶喜が斉昭の第七子であり、現藩主徳川慶篤の弟であることから、水戸藩士の中にも慶喜に期待する者は多かった。
だが、井伊直弼は、安政五年(1858)春に大老に就任するや、条約問題と将軍継嗣問題の強権的解決をはかる。朝廷の勅許が降りないまま日米修好通商条約に調印、さらに慶福が後継に決定した旨を一方的に発表したのである。
斉昭、慶篤ら一橋派の諸侯は、江戸城に不時登城して井伊を責めたが、逆に不時登城を咎められて処罰された。斉昭は謹慎。慶篤、慶喜は登城停止である。その翌日、家定が急逝して、慶福改め徳川家茂が十四代将軍となっている。一橋派の領袖である薩摩藩主島津斉彬はコレラを発病して亡くなった。
そんな中、井伊大老の強権政治に反発した水戸藩士と薩摩藩士が朝廷に工作、条約の無断調印と一橋派諸侯の処罰を詰問する趣旨の勅書が朝廷から直接水戸藩へ出された。この勅書降下は幕閣を震撼させた。これを一橋派の陰謀とみた井伊は、各藩藩士、さらに公卿にも追及の手をのばしていった。世にいう「安政の大獄」である……。
| 〈原 作〉 | 『桜田門外ノ変』 吉村 昭(新潮文庫) |
| 〈脚 本〉 | 江良 至 / 佐藤 純彌 |
| 〈監 督〉 | 佐藤 純彌 |
| 〈企 画〉 | 橘川 栄作 |
| 〈プロデューサー〉 | 三上靖彦 / 川崎 隆 / 鈴木義久 |